「メタバース進化論」の所感

Theme : 自分自身のアイデンティティが自由に変えられるようになる未来において、必要とされるものは何であろうか?

メタバース」と呼ばれる

  • 大規模性

  • アクセス性

  • 経済性

  • 没入性

が 、成立する具体的な概念において、自己の外見や声が自由に編集できるようになり、複数の自己をもつことができるようになるとされている。

では、この複数の自己をもつ時代において、どのようなことが起こるのかについて、想像してみましょう。

自己が複数あること、アイデンティティを自由に編集できることの2つの観点から想像してみます。

まず、自己が複数存在することについてからです。

①現実の自己

②バーチャル世界の自己

大きく分けて上記の2つの自己に分かれると考えられます。

①についての現実の自己についてみていきましょう。

現在では、仕事場、友人、家族など様々な場面でいろいろな自己を使い分けています。(俗にいう「キャラ」のことです。「キャラ」についてはそれだけで、1冊の本が書けてしまうくらいに大きい話なので、今回は割愛します。)

ですが、大きく変わらないものがあります。それが外見です。もちろん、某匿名掲示板のように「匿名」のまま、自己を表現する場所があるじゃないか!とおっしゃられる方もいらっしゃると思いますが、それについては、後々に考察します。

「外見」について、自己を決定する大きなファクタであることは間違いがありません。

「第一印象」の魅力度について、魅力度が高い人ほど、知性が高く、年収も高くなる傾向は統計上わかっています。(もちろん、多くの例外は存在しますが、大局的にみると有意差が存在するそうです。)

この「第一印象」をよくするために、人々はワックスで髪を固め、ロレックスの時計をつけ、ネクタイを締め、顔に化粧を施し、ハイヒールを履くことを日々の生活で行っています。

ですが、おそらく「顔」の魅力度による効果と比較して、「服装」や「体形」による差はそれほど大きく出ないでしょう(このことは「ただし、イケメンに限る」のような言葉で容易に想像しうるでしょう)

では、この「顔」が自由に編集でき、さらには「体形」「服装」までもが自由にデザインできるとしたらどうなるでしょう?

次にそれを考えていきます。

②についてのバーチャル世界の自己についてみていきましょう

メタバース進化論」にあるように、遠くない将来、「メタバース空間」において、自由に外見・声について、変種出来る時代が到来するでしょう。

では、そこで大切なものは何でしょうか?

  1. 外見そのものによる「アイデンティティ

  2. 性格や人柄とよばれる「中身」

の2つが考えられます。

Aの外見そのものによる「アイデンティティ」はゴーストエンジニアリングと呼ばれる分野において、研究が盛んであり、興味がある方はぜひ調べてみてください。

今回は諸事情により、割愛します。

Bの「中身」について、考察していきたいと思います。

「人間の中身」とは一体何でしょうか?

心理学的にはパーソナリティなどと呼ばれ、Big5理論など様々なモデルが提案され、研究が行われてまいりました。

結論から言うと、「人間の中身」とは、自分からみると一貫している静的ものだが、外部から観察すると環境により変化する動的なもの、であることがわかってきたそうです。

つまり、ジャイアンは自分自身のことを「優しい」と思っているが、日常において外部から観察すると「怒りっぽく」、映画において外部から観察すると「優しくなる」のような変化です。

これから何が言えるのかというと、性格も技術の発展により、外部から見た「性格」の編集が可能になる可能性があるということです。

実際に、非英語話者の人たちのために、ネイティブスピーカーの方が発言した、専門用語の単語を簡単な単語に置き換える研究が存在します。

これを「汚い」言葉から「美しい」言葉に置き換えて、それを本人の音声と同じ声でマイクから出力したらどうなるでしょう?

簡単に「ガラの悪い人」から「誠実そうな人」へと変換されてしまいます。本人はいつも通りに話しているのにも関わらずです。

もちろん、この時代には音声の抑揚や大きさ、高さなども「誠実な人」と見せかけるように「美しく」変換されて、出力されるでしょう。

メタバース」の時代にはこれが簡単に可能になっていると予想されます。

では、このユートピアみたいな世界で何が起きるのかを想像したとき、私は「自己の一貫性の喪失」、つまり「多重人格」のようなことが起こるのではないかなと考えています。

もちろん、「人格」が現れるのが「現実世界」と「仮想世界A」と「仮想世界B」のように「世界」ごとに分かれているとおもいますが。

これで何が問題なのかというと、現在でも言われていることですが、「自分だけの神様」が失われてしまうのではないか?正確には、判断基準となる絶対的なものがより消えてしまうのではないかと思います。

「仮想世界」では何でもでき、「現実世界」においても「仮想世界」の技術を持ち込むことができるようになるでしょう。

そこでは「仮想世界」での殺人がおき、「現実世界」に重ねられた「仮想世界」の相手の殺人も起こるかもしれません。

ですが、「現実の肉体」そのものは傷つけられていないわけです。法が追い付かないため、法で裁くことも難いでしょうし、(ネットが日本に普及してから20年以上たちますが、いまだにサイバーテロに対する法案は甘かったりします。)、ファントムセンスのため個人差があるので、精神的なものとして裁くことも難しいでしょう。

また、個人の判断基準も「仮想世界」の人柄、外見などは価値をもたず、「仮想世界」の実績のみが評価軸となるかもしれません。

このような時代(現代も含めて)において、普遍的な「絶対」は存在しませんが、個人の「絶対」はより重要性が増すのではないでしょうか?